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学問のすすめ 十四編

  心事の棚卸

 人の世を渡る有様を見るに、心に思うよりも案外に悪をなし、心に思うよりも案外に愚を働き、心に企つるよりも案外に功を成さざるものなり。如何なる悪人にても生涯の間勉強して悪事のみをなさんと思う者はなけれども、物に当り事に接して不図悪念を生じ、我身躬から悪と知りながら色々に身勝手なる説を付けて、強いて自ら慰むる者あり。また或いは物事に当って行うときは決してこれを悪事と思わず、毫も心に恥ずるところなきのみならず、一心一向に善き事と信じて、他人の異見などあれば却ってこれを怨む程にありしことにても、年月を経て後に考うれば大いに我不行届にて心に恥入ることあり。

 また人の性に智愚強弱の別ありと雖ども、自ら禽獣の智恵にも叶わぬと思う者はあるべからず。世の中にある様々の仕事を見分けて、この事なれば自分の手にも叶うことと思い、自分相応にこれを引受くることなれども、その事を行うの間に思いの外に失策多くして最初の目的を誤り、世間にも笑われ自分にも後悔すること多し。世に功業を企てて誤る者を傍観すれば、実に捧腹にも堪えざる程の愚を働きたるように見ゆれども、そのこれを企てたる人は必ずしも左まで愚なるに非ず、よくその情実を尋ぬればまた尤なる次第あるものなり。必竟世の事変は活物にて、容易にその機変を前知すべからず。これがために智者と雖ども案外に愚を働くもの多し。

 また人の企ては常に大なるものにて、事の難易大小と時日の長短とを比較すること甚だ難し。フランキリン言えることあり、「十分と思いし時も事に当れば必ず足らざるを覚ゆるものなり」と。この言真に然り。大工に普請を言い付け、仕立屋に衣服を注文して、十に八、九は必ずその日限を誤らざる者なし。こは大工仕立屋の故さらに企てたる不埒に非ず、その初に仕事と時日とを精密に比較せざりしより、図らずも違約に立ち至りたるのみ。さて、世間の人は大工仕立屋に向かって違約を責むることは珍しからず、これを責むるにまた理屈なきに非ず。大工仕立屋は常に恐れ入り、旦那はよく道理の分りたる人物のように見ゆれども、その旦那なる者が自ら自分の請合いたる仕事につき、果して日限の通りに成したることあるや。

 田舎の書生、国を出るときは、難苦を嘗めて三年の内に成業と自ら期したる者、よくその心の約束を践みたるや。無理な才覚をして渇望したる原書を求め、三箇月の間にこれを読み終らんと約したる者、果してよくその約の如くしたるや。有志の士君子「某が政府に出れば、この事務もかくの如く処し、この改革もかくの如く処し、半年の間に政府の面目を改むべし」とて、再三建白の上漸く本望を達して出仕の後、果してその前日の心事に背かざるや。貧書生が、「我れに万両の金あれば明日より日本国中の門並に学校を設けて家に不学の輩なからしめん」と言う者を、今日良縁に由って三井、鴻ノ池の養子たらしむることあらば、果してその言の如くなるべきや。この類の夢想を計うれば枚挙に遑あらず。みな事の難易と時の長短とを比較せずして、時を計ること寛やかに過ぎ、事を視ること易きに過ぎたる罪なり。

 また世間に事を企つる人の言を聞くに、「生涯の内」または「十年の内にこれを成す」と言う者は最も多く、「三年の内」、「一年の内に」と言う者はやや少なく、「一月の内」、或いは「今日この事を企てて今正にこれを行う」と言う者は殆ど稀にして、「十年前に企てたる事を今既に成したり」というが如きは余輩未だその人を見ず。かくの如く期限の長き未来を言うときには大造なる事を企つるようなれども、その期限漸く近くして今月今日と迫るに従って、明らかにその企ての次第を述ぶること能わざるは、必竟事を企つるに当って時日の長短を勘定に入れざるより生ずる不都合なり。

 右所論の如く、人生の有様は徳義の事についても思いの外に悪事をなし、智恵の事についても思いの外に愚を働き、思いの外に事業を遂げざるものなり。この不都合を防ぐの方便は様々なれども、今爰に人のあまり心付かざる一箇条あり。その箇条とは何ぞや。事業の成否得失に付き、時々自分の胸中に差引の勘定を立つることなり。商売にて言えば、棚卸の総勘定の如きものこれなり。

 凡そ商売において最初より損亡を企つる者あるべからず。先ず自分の才力と元金とを顧み、世間の景気を察して事を始め、千状万態の変に応じて或いは中たり或いは外れ、この仕入に損を蒙りかの売捌に益を取り、一年または一箇月の終りに総勘定をなすときは、或いは見込みの通りに行われたることもあり、或いは大いに相違したることもあり、また或いは売買繁劇の際にこの品につきては必ず益あることなりと思いしものも、棚卸に出来たる損益平均の表を見れば案に相違して損亡なることあり、或いは仕入のときは品物不足と思いしものも、棚卸のときに残品を見れば、売捌に案外の時日を費やしてその仕入却って多きに過ぎたるものもあり。故に商売に一大緊要なるは、平日の帳合を精密にして、棚卸の期を誤らざるの一事なり。

 他の人事もまたかくの如し。人間生々の商売は、十歳前後人心の出来し時より始めたるものなれば、平生智徳事業の帳合を精密にして、勉めて損亡を引請けざるように心掛けざるべからず。「過ぐる十年の間には何を損し何を益したるや、現今は何らの商売をなしてその繁昌の有様は如何なるや、今は何品を仕入れて何れの時何れの処に売捌く積りなるや、年来心の店の取締は行届きて遊冶懶惰など名づくる召使のために穴を明けられたる事はなきや、来年も同様の商売にて慥なる見込みあるべきや、最早別に智徳を益すべき工夫もなきや」と、諸帳面を点検して棚卸の総勘定をなすことあらば、過去現在身の行状につき必ず不都合なることも多かるべし。その一、二を挙ぐれば、「貧は士の常、尽忠報国」などとて、妄に百姓の米を喰い潰して得意の色をなし、今日に至りて事実に困る者は、舶来の小銃あるを知らずして刀剣を仕入れ、一時の利を得て残品に後悔するが如し。和漢の古書のみを研究して西洋日新の学を顧みず古を信じて疑わざりし者は、過ぎたる夏の景気を忘れずして冬の差入りに蚊帷を買い込むが如し。青年の書生未だ学問も熟せずして遽に小官を求め一生の間等外に徘徊するは、半ば仕立たる衣服を質に入れて流すが如し。地理歴史の初歩をも知らず日用の手紙を書くこともむつかしくして妄に高尚の書を読まんとし、開巻五、六葉を見てまた他の書を求むるは、元手なしに商売を初めて日に業を変ずるが如し。和漢洋の書を読めども天下国家の形勢を知らず一身一家の生計にも苦しむ者は、十露盤を持たずして万屋の商売をなすが如し。

 天下を治むるを知って身を修むるを知らざる者は、隣家の帳合に助言して自家に盗賊の入るを知らざるが如し。口に流行の日新を唱えて心に見るところなく、我一身の何物たるをも考えざる者は、売品の名を知りて値段を知らざるものの如し。これらの不都合は現に今の世に珍しからず。その源因は、ただ流れ渡りにこの世を渡りて、嘗てその身の有様に注意することなく、生来今日に至るまで我身は何事をなしたるや、今は何事をなせるや、今後は何事をなすべきやと、自らその身を点検せざるの罪なり。故に云く、商売の有様を明らかにして後日の見込を定むるものは帳面の総勘定なり、一身の有様を明らかにして後日の方向を立つるものは智徳事業の棚卸なり。

  世話の字の義

 世話の字に二つの意味あり、一は「保護」の義なり、一は「命令」の義なり。保護とは人の事につき傍より番をして防ぎ護り、或いはこれに財物を与え或いはこれがために時を費やし、その人をして利益をも面目をも失わしめざるように世話をすることなり。命令とは人のために考えて、その人の身に便利ならんと思うことを差図し、不便利ならんと思うことには異見を加え、心の丈けを尽して忠告することにて、これまた世話の義なり。

 右の如く世話の字に保護と差図と両様の義を備えて人の世話をするときは、真によき世話にて世の中は円く治まるべし。譬えば父母の子供におけるが如く、衣食を与えて保護の世話をすれば、子供は父母の言うことを聞きて差図を受け、親子の間柄に不都合あることなし。また政府にては法律を設けて国民の生命と面目と私有とを大切に取扱い、一般の安全を謀って保護の世話をなし、人民は政府の命令に従って差図の世話に戻ることあらざれば、公私の間、円く治まるべし。

 故に保護と差図とは、両ながらその至る処を供にし、寸分も境界を誤るべからず。保護の至る処は即ち差図の及ぶ処なり。差図の及ぶ処は必ず保護の至る処ならざるを得ず。もし然らずして、この二者の至り及ぶ所の度を誤り、僅に齟齬することあれば、忽ち不都合を生じて禍の源因となるべし。世間にその例少なからず。蓋しその由縁は、世の人々常に世話の字の義を誤りて、或いは保護の意味に解し、或いは差図の意味に解し、ただ一方にのみ偏して文字の全き義を尽すことなく、もって大なる間違に及びたるなり。

 譬えば父母の差図を聴かざる道楽息子へ漫に銭を与えてその遊冶放蕩を逞しうせしむるは、保護の世話は行届きて差図の世話は行われざるものなり。子供は謹慎勉強して父母の命に従うと雖ども、この子供に衣食をも十分に給せずして無学文盲の苦界に陥らしむるは、差図の世話のみをなして保護の世話を怠るものなり。甲は不孝にして乙は不慈なり。共にこれを人間の悪事と言うべし。

 古人の教えに「朋友に屡(しばしば)すれば疎(うと)んぜらるる」とあり。その訳けは、「我忠告をも用いざる朋友に向かって余計なる深切を尽し、その気前をも知らずして厚かましく異見をすれば、遂には却ってあいそつかしとなりて、先きの人に嫌われ、或いは怨まれ或いは馬鹿にせられて事実に益なきゆえ、大概に見計うて此方から寄付かぬようにすべし」との趣意なり。この趣意も即ち差図の世話の行届かぬ所には保護の世話をなすべからずということなり。

 また昔かたぎに、田舎の老人が旧き本家の系図を持出して別家の内を掻きまわし、或いは銭もなき叔父様が実家の姪を呼び付けてその家事を差図し、その薄情を責めその不行届を咎め、甚だしきに至っては知らぬ祖父の遺言などとて姪の家の私有を奪い去らんとするが如きは、差図の世話は厚きに過ぎて保護の世話の痕跡もなきものなり。諺にいわゆる「大きに御世話」とはこの事なり。

 また世に貧民救助とて、人物の良否を問わずその貧乏の源因を尋ねず、ただ貧乏の有様を見て米銭を与うることあり。鰥寡孤独、実に頼るところなき者へは救助も尤なれども、五升の御救米(おすくまい)を貰うて三升は酒にして飲む者なきに非ず。禁酒の差図も出来ずして漫に米を与うるは、差図の行届かずして保護の度を越えたるものなり。諺にいわゆる「大きに御苦労」とはこの事なり。英国などにても救窮の法に困却するはこの一条なりという。

 この理を拡めて一国の政治上に論ずれば、人民は租税を出して政府の入用を給し、その世帯向を保護するものなり。然るに専制の政にて、人民の助言をば少しも用いず、またその助言を述ぶべき場所もまきは、これまた保護の一方は達して差図の路は塞りたるものなり。人民の有様は大きに御苦労なりと言うべし。

 この類を求めて例を挙ぐれば一々計うるに遑あらず。この「世話」の字義は経済論の最も大切なる箇条なれば、人間の渡世において、その職業の異同事柄の軽重に拘わらず常にこれに注意せざるべからず。或いはこの議論は全く十露盤ずくにて薄情なるに似たれども、薄くすべきところを無理に厚くせんとし、或いはその実の薄きを顧みずしてその名を厚くせんとし、却ってにんげんの至情を害して世の交際を苦々しくするが如きは、名を買わんとして実を失うものと言うべし。

 右の如く議論は立てたれども、世人の誤解を恐れて念のため爰に数言を附せん。修心道徳の教えにおいては、或いは経済の法と相戻るが如きものあり。蓋し一身の私徳は悉皆天下の経済に差響くものに非ず、見ず知らずの乞食に銭を投与し、或いは貧人の憐れむべき者を見れば、その人の来歴をも問わずして多少の財物を給することあり。そのこれを投与しこれを給するは即ち保護の世話なれども、この保護は差図と共に行わるるものに非ず、考えの領分を窮屈にしてただ経済上の公をもってこれを論ずれば不都合なるに似たれども、一身の私徳において恵与の心は最も貴ぶべく最も好みすべきものなり。譬えば天下に乞食を禁ずるの法は固より公明正大なるものなれども、人々の私において乞食に物を与えんとするの心は咎むべからず。人間万事十露盤を用いて決定すべきものに非ず、ただその用ゆべき場所と用ゆべからざる場所とを区別すること緊要なるのみ。世の学者、経済の公論に酔いて仁恵の私徳を忘るるなかれ。

  (明治八年三月出版)

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